毎月1回全校朝礼に、宗教部が担当して宗教講話を行っています。
今回は「犠牲」について校長よりお話をしました。
むっとする講堂での朝礼でしたが、静かにしっかり聞いてくれた生徒に感謝です
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今日は、先ほどのお祈りにありました「犠牲」についてお話しします。
犠牲・・・どういう意味でしょう。これは牛の字ですから、神様に供える生き物。いけにえ。
二つ目に、「ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること。」
3月11の大地震からもうすぐ4ヶ月がたちます。
私たちは、あのとき、確かに「共にありたい」と決意しました。
目をつぶり、東北に思いをやってみましょう。
復興に向かって頑張っている人達が見えます。
避難所になっている体育館、暑くても辛抱して暮らしている人が見えます。
原発事故を収束させようと暑い中、防護服をきて働いている人が見えます。
放射能で汚染された運動場、窓を開けられない、外で遊べない小学校が有ります。
地震から4ヶ月がたとうとしているのに今だに福島原子力発電所からは放射能が漏れ続け、収束の見通しすらたっていません。
京都府でも雨や食品から少量なら心配はないとされていますが放射能が検出されています。
私たちが快適さと便利さを求めてきた結果が、福島原発の事故なのかもしれません。舞鶴から近い若狭湾には多くの原子力発電所が建っています。
若狭や丹後で地震や津波があったという記録も確かにあります。
舞鶴市は高浜原発から20KM圏内、事故が起きれば全員避難しなければなりませんし福島同様、ほぼふるさとに帰ることができなくなります。
そうしたリスクを福島に、若狭に押しつけてきたのは他ならぬ私たち自身であり私たちも原発の地元です。
関西ではあまり感じられませんが、今、日本はかってない困難の中にいます。
いや日本だけでなく世界中に影響を及ぼしています。
電気をつけ、暑ければ、クーラーをつける。私たちが快適さや豊かさを追い求めてきた暮らし方が、一旦事故が起こるとコントロール不能な原子力発電所を必要としています。
このまま滅びの道を歩み続けるのか、少し不便でも立ち止まることができるのか。
ドイツやイタリアでは、原子力発電所をやめるという決断をしました。
私たちもまた正念場にあります。
関西電力から節電を言われたからするといったたぐいのものではありません。私たちのくらしの在り方が問われています。
今までの暮らし方は1度には変えられません。けれどちょっと我慢して一歩を踏み出すことはできます。
齋藤教頭先生は、便利な自動車の生活をやめて、晴れの日は自転車通勤に変えられました。私もネクタイをはずして、校長室では会議以外にはクーラーをつけないでおこうと思っています。
そういう行いを、宗教では「犠牲」といいます。
「ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること。」と辞典にも書いてあります。
キリスト教においては、イエス・キリストが人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かってくださったことがまさに最大の「犠牲」です。私たちのためにイエスは命を投げ出してくださった。
仏教でも、自分の利益を犠牲にして他人の利益を図ることほど尊いものはないと教えられます。
『自我を捨て、無我になる』すなわち自分の我をすて自分以外のものになることで世界とつながるという教えです。
難しいことに挑戦したり願いを達成するためには犠牲が必要です。
明日から期末テストが始まります。
スポーツの鍛錬でも進学就職試験でも同じです。
普段と同じようにしていては、クリアできません。
遊んでいてうまく行くほど人生甘くありません。
ちょっと我慢して勉強に集中する。
進学コースの人は毎日8時間目まで、土曜講座でも勉強をがんばっています。
看護科の人も、人の役にたつ看護師になるためにと勉強に実習に頑張っています。
野球部もいよいよ14日に夏の高校野球の試合に臨みます。
目的達成のためには、何かを「犠牲」にし、プレッシャーを自分に果たし切れた時に勝利の女神はほほえむのだと思います。
東北に行かずとも、東北の苦しんでいる人達のことを思い、一人一人が、今やるべきことをしっかりとやりきること、できることをやりきることで、被災地と繋がっていけのではないでしょうか。
「時々立ち止まる。じっくり考える。少し我慢してみる。」それを頭に入れて残り少ない一学期を過ごして欲しい。
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