昨日掲載の 「マタイによる福音25章34-40」について
前後のお話があるのですが、卒業式では時間の都合もありこの部分だけを朗読します。
「小さき者とは」で次のような解説があります。

☆この箇所を、わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われることなのです。

☆ 実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛の道具として隣人を愛したのではないのです。

☆それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいのではないでしょうか。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11章12節参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19章28節)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「裸」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言ってもいいのではないでしょうか。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。
カトリック東京教区「福音のヒント」より

私たちが、キリストの隣人愛を実践するのは、「自分のため」「神のため」ではなく、目の前に困っている人がいて、それに手をさしのべるのは、人間として当たり前の事です。
一年前、大震災が起こったとき、被災にあったひとたちと「共にありたい」との思いで立ち上がった生徒たちでした。
そうした1年をふりかえり、本学園の「建学の精神」であるこの箇所を照らし合わせて考え、これからの生き方の指針となることを願っています。