陸前高田市から釜石市に移動する。この日予定している3つ目の仮設住宅までの車窓からは、相変わらず、倒壊し雨ざらし状態のビルや、未だ行き場の定まらないガレキの山が飛び込んでくる。目的の箱崎町に近づくにつれ、雑草に覆われて一面家の土台だけが残った地域が広がっている。その一つひとつに、人の生活があり人の喜びや悲しみがあったはずだ。しかし、いまその目の前の風景からは、人たちの面影や息づかいを感じることはできない。そんな光景の中を通り抜け、集落跡が途切れたあたりに目指す仮設住宅はあった。

20120710-010154.jpg
事前の連絡で、数人の主婦たちが私たちの到着を待ちわびていたようだった。ここも12世帯が身を寄せ合って住んでいる仮設だ。手際よく荷下ろしを手伝ってくれると、早速物資選びが始まった。そのおばちゃんたちの姿を見ていると、やはり物が少ないのかなーと思う。実際、ここの住人の方々は言う。”ここには物資支援がこれまでほとんどない。洗剤やトイレットペーパーがまだまだ足りない” 。このような直接的な支援物資の持ち込みには、”大変助かる! “と言っていただいた。特に足の不自由な人にとっては、時々やってくる移動販売が頼りだからだ。
“仮設は動物園と同じ、頭がおかしくなる” という。”行政の復興のスピードが遅い、自分たちで細々とやるしかない・・・”

20120710-010423.jpg

最後に、深海魚を味噌で煮込んだ どんこ汁と茹でたイカをごちそうになった。

20120710-010625.jpg
思いがけずご馳走にあずかり、今日予定していた最後の仮設訪問が大分遅くなってしまった。薄暗くなり始めた海岸沿いの小高い山を通り抜けて行く。平地から山あいにかけての樹々を注意深く見てみると、杉などの針葉樹だけが立ち枯れていることが分かる。ここまで津波がきた証しだ。そして植樹された針葉樹が海水に弱いことを示している

20120710-010757.jpg

本日4つ目の仮設住宅、箱崎町白浜仮設住宅に到着したのは午後7時半ごろになっていた。ほどなく暗くなり車のライトが物資を照らし出した。ここの消防団長でまとめ役でもある佐々木さん(86歳)が吐き出すように語り始めた。

20120710-010857.jpg

「この仮設の下の海岸に120戸の家があった。高さ20〜30mの津波が時速80kmの速さで押し寄せてきた。30戸が流された。自身の家も三年前に1800万円で新築したが流された。その津波で40人が亡くなった。20人の遺体が発見されたが、未だに20人が行方不明だ。この避難場所(小学校のグランド)にSOSと書いた。
支援物資としては、味噌・醤油・塩などの調味料が大変ありがたい。肉や刺身はあるが、醤油がない。買い物がとても大変だ。復興のための問題は、道路がないこと。道路があると復興が進むが、中々進まない。2年かかるか、5年かかるか・・・病院まで1時間もかかるか。今日から共同作業所で養殖作業にはいった。今日はホタテの解禁日だ。・・・」

矢継ぎ早に話す佐々木さん。筆舌に尽くし難いほどの苦しい体験をした。今、その体験を人に話すことによって、自分の肩の荷を下ろそうとしているのだろう

翌7月4日(水)午後、仮設住宅訪問の最後、箱崎町第2仮設団地へ向かった。ここには6軒の仮設が身を寄せ合うようにして立てられていた。ここに住む人たちはみな上田さんだという。昔の長屋暮らしを強いると笑っていた。
あの日、避難場所の上まで波がきた。波に追われて助かった人もいるが、ダメだった人もいた。
また、対岸の大鎚町から煙が流れてきた。津波でなくなった人も火事でなくなった人もいる。これからのことを考えると不安になる。そのため日中はできるだけ違うことを見たり考えたりしている。だから『韓ドラ』を見てしまう。政府の復興への方針が全く見えてこない。だから県も市もなにをしたら良いかわからない。選挙に使うお金をこちらに回して欲しい。

この仮設で当初予定していた訪問が終了した。私たちの活動は、大海への一滴にすぎないのかもしれない。しかし、小さな仮設であっても、そこには生命を拾ったものの思わぬ苦労の日々に耐える人たちが、必死に生きつなごうとする姿があった。
今回の訪問が、そのひたむきな人たちへの一筋の灯になったならば、私たちにとっては思わね喜びである

20120710-011002.jpg

“生きてしまった”と涙したおばあちゃんの顔、手渡した本を精一杯高く掲げて喜ぶ少女の笑顔を忘れることができない・・・。

20120710-011147.jpg