7月4日(水)午前、釜石市二日目の朝。支援物資の買い出しのため「シープラザ釜石」を訪れた。入り口近くで三陸名産(やみつきさんまなど)販売しているMKさんらに、当時の話や今の思いを聞くことができた。

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「私はその時、車と一緒に流され、一晩中真っ暗の中で過ごしまた。息子は屋根伝いに逃げて何とか助かりました。再開発が心配です。自分の住んでいた土地がこれからどうなるのかが心配で心配で・・・。10年計画ができてるようですが、生きているかどうかわかりません。市は高い防潮堤を築こうとしていますが、これまで海と共存してきた私たちにとって大問題です。海が見えなくなったら釜石の観光はどうなるのでしょう。ゼネコンが儲かる仕組みになっています。一体優先順位とは何なのでしょうね。今の大飯町の原発再稼動の構造と全く同じような気がします。最近は求人はあるようです。しかし、応募してくる人がなく、働き手を探すのに苦労しているようです。皆さん方には、ぜひ今の生活を大切にしてほしい・・・。」

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涙をこらえながら話してくれていたが、堪えきれずにタオルで顔を覆った。しかしその彼女は、震災語り部としてしっかりと前を向いていた。その姿を忘れることはできない。

三陸名産のお店で時間をついやしすぎた。お昼になってしまった。何処かで食事をと探していたら、どこからか関西弁の響きが、さらにふと見ると「なにわ屋」と書いてある。東北の地で関西の風を感じると一気に打ち解けるものだ。そのなにわ屋さんの女将さん(?)Y.T.さんに話を聞くことができた。彼女自身、阪神大震災の時、ボランティア活動をした経験がある。釜石に嫁いできて16年になるという。今は、”おしゃれでかわいい店 関西系ファッション・雑貨 “なにわ屋をご主人と一緒に経営している。

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「あの日、津波がこのビルのすぐ脇までやって来た。たまたま学校帰りの娘がこの店に立ち寄っていたので命が助かった。自分の家が流されてしまっていたからです。」
津波が発生した当時から、このビルは災害対策本部が置かれた。そんな場所で働いているので、これまで様々なボランティアや支援活動を見てきた。
「公的機関を通しての支援物資はなかなか末端の市民までは届かない。変な平等主義のため、せっかくの支援物資が渡されず、放置されたり、中には役所の人が使用しているケースもある。みのもんたに手紙を書いたこともある。あるいは、冬のコートが夏にやって来たり・・・。
また、韓国や中国の人たちが来て、直接現金しかも結構高額の現金を手渡すこともあった。
役所では40・50代の中間管理職が一番苦労しているという。首長の指示と市民からの要望にどう折り合いをつけるのか、苦しい思いをしていることだろう。」
復興の中のひずみ、困難だ。

釜石での仮設住宅訪問を終えて、この日泊まるホテルがある宮古市を目指す。途中、マスコミでたびたび報道された宝来館の横に立ち寄った。道路沿いの堤防らしき場所から松林を挟んで海の方角を臨むと、皆 “ウワー” と声をはりあげた。海面から足下までおおよそ10数メートルはある。さらに津波が到達した宝来館の二階部分まで加えると、まさに今回の津波の高さと脅威は「想像を絶する」ものだったことが理解できる。その場所に、『津波Memorial』が立っていた。「ともかく上へ上へ逃げよ てんでんこで逃げよ 自分を助けよ ・・・」。この事実を後世に残そうとする強いメッセージだ。

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車で移動しはじめて、海岸線に近いガソリンスタンドに立ち寄る。そのスタンド周辺には何もない、全く何もないのだ。”すべて津波に流された”とスタンドのオーナーK.S.さんは話す。よく見ると、鉄道の橋脚が列をなして残っていた。その間には橋脚を結んでいたであろう陸橋がまるで転げ落ちたかのようにして引っくり返っていた。この陸橋がまさに流される実際の光景をKさんは、あの時、見ていた。そして、手前にある小高い山に命からがら逃げ延びたという。

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このKさん、1960年のチリ大地震による大津波も経験している。今回はその時以上にすごかったという。実はこの周辺には多くの家があった。しかしすべてが流された。津波がくると不思議に火災が起きるという。ここも一時火の海と化した。
このSSは、昨年の12月に再開できた。補助が2/3、自分の持ち出しが1/3だった。建物は小さな事務所での再出発だった。この辺りは産業地帯に指定され、個人の家は建てられなくなった。それでも、4年後には、自分の家を持ちたいという。「オレたちには、時間がねんだ」というKさんの目は、わずかだが、確かな光を湛(たた)えていた。