(校長講話)

新しい年度が始まって一ヶ月がたちました。みなさんのスタートはいかがでしょうか。順調にいっている人、こんなはずじゃなかったと壁にぶつかっている人もいるでしょう。
私たちの生活や目標実現のプロセスではうまくいかないことや失敗もあります
現実の厳しさの前でひるんでしまいがちです。
でもしっかり学習に向かっていってほしい。
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今日は、2つのお話をします。
1つめは復活、2つめは創立記念についてです。

まず、「復活」のお話から。

聖書によると、イエスが私たちのすべての罪を背負って、十字架にかけられ殺された。墓にいれられたが、イエスは3日目に死者からよみがえった。とあります。これが復活の物語です。

まず、復活祭、イースターがなぜこの時期なのかというと、
ヨーロッパのドイツやイギリスなど春の訪れを祝うお祭りと、キリスト教の過ぎこしの祭りが結びついたとあります。

秋に葉っぱが落ちて、枯れてしまったように見える木々から、春になると新しい葉が出てきて、花をさかせますね。私たちは、そこによみがえりと新しい命を感じます。その様子が、十字架で処刑された後に復活したとされるイエス・キリストのイメージと重なり、イースターとして祝われるようになったそうです。

人々に「絶望から希望」を与えるのが復活の物語だとするならば、私たちもまた、キリスト教の「復活」。復活を祝う復活祭にあやかって希望をいただこうではありませんか。
イエスは、聖書の中で次のように言っています。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば、多くの実を結ぶべし」
種は、そのままだと1粒に過ぎないけれど、それが土に落ちて死ぬことによって、新たな芽が出て、多くの実を結ぶという意味です。

アンドレジイドという人が、「一粒の麦、もし死なずば」という自伝的な小説を書いたのが1921年(日本の大正時代)です。

昨日、NHK大河ドラマ「花もゆ」を見ていました。
江戸時代の末期に、安政の大獄で吉田松陰が、打ち首になるのですが
弟子に残した書の中に次のように言っています。

「死を前にして心安らかです。私も実りの時を迎えたからです。
私のこころをついでくれる人がいたら、私の実は空ではない。
どうか、一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」

「吉田松陰は、死して尚、生き続ける」とナレーションしていました。

この死が、幕末の志士たちに影響し、やがて明治維新を生んでいく原動力となっていきました。
これも一つの復活ではないでしょうか。

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聖書では、イエスの身体がよみがえって弟子たちの前に現れた。とあります。
教会では、「神は生も死も司る。」と教えています。

イエスの復活もまた、超自然的な出来事として語ります。
そして、全ての人が、最後の審判の時に、死者の中からよみがえるとしています。

イエスという方は、
自分の命が他者を生かすものであり
自分の死さえ、他者を生かすものであると信じて生き、十字架上でなくなった方である。
ということを知っておいてほしいと思います。

「イエスは永遠の命であり、見えないけれどおられる」
勇気も希望も、愛も信頼も目には見えません。
見えないからないのではありませんね。
本当に大切なものは目に見えないのです。

イエスの死と復活、その意味を受け継ぐためにミサがあります。

私たちの新たな生まれ変わり 復活への希望、生かされていることへの感謝の気持ちをもってミサに臨んでみませんか。

きっとそこに新たな自分の生まれ変わり、私たちの復活への希望をいただくことができるのではないでしょうか。