東日本大震災から4年が経ち、大勢の人が復興を願っている今、私達生徒会は夏休みに東北ボランティアに行ってきました。

1日目は移動だけでしたが、どこを見渡しても初めて見る風景で戸惑いを隠せませんでした。

2日目は畑での農作業でした。ある家庭の畑での作業だったのですが、震災で津波に逢いほとんどの畑の作物ができなくなり、何もない状態のビニールハウスや畑がありました。その中で約5時間、広い畑にネギを植え付ける作業をしました。もちろん所々で休憩が入りましたが、暑い中での作業は正直とてもつらく、始まって早々体力を失いそうになりました。その時私は、ボランティア活動の心得というものを思い出しました。「ボランティア活動では、助ける何かをしてあげるということ以上に共に寄り添う」という精神を大切にすること。確かに、困っている人を助けてあげたい、何かをして少しでも喜んでもらいたいという気持ちもありましたが、それ以上に私達が彼らと一緒に協力し、また被害に遭う前の畑を作り上げたいという思いを強く感じ、最後まで全力を尽くすことができました。

3日目は、荒砥仮設という所で、’お茶っこ’という活動をしました。仮設住宅に住むお年寄りの方とお茶やお菓子を囲んで2時間ほど会話をするものでした。最初は、初めて会う人と話をする、その上、知らない地域の知らない方言で話すお年寄りの方にどのように接したらよいのかとても不安だったのですが、顔も名前も分からない私達にわかりやすく話してくれました。お年寄りの方以外に男の子と女の子も来てくれました。その仮設住宅に住む子供は2人しかおらず、まるで兄妹のようにいつもそばにいる存在のようにも思えました。子供達と遊ぶ時間も限られ、その場を離れるとき、「もうここには戻ってくることもないし、この子供に会うこともない。私達のことも忘れてしまうと思うけど、いつまでも元気でいてほしい」という思いを込めて2人に「元気でね」という言葉を言い、その場を離れました。

午前中にお茶っこを済ませ、午後からは向井さんというスタッフの方に案内され、気仙沼市の視察に行ってきました。被害に遭った地域というのはもちろん知っていたので、心を傷めてしまうところがいくつかありました。その中でも一番心に響いたのが、津波で被災された方々の慰霊碑を見ていた時でした。90人ほどの名前が書かれている中に、ある家庭の名前がつづられていました。書かれていたのは6人だったのですが、実際には7人で長男の高校生だけが高校に行っていて命を救われたという話をされました。自分の命は救われた。それでも大切な家族が自分を残して逝ってということがどれだけつらいことか、私は涙が出るのをこらえながら当時の話を聞いていました。被害が起こる前は、家やお店が立ち並ぶ住宅街、そこは最初から家なんてなかったのではないかと疑ってしまうほど、ただ野原のように草が生えているだけでした。そこに住んでいた人々の家が津波によってなくなってしまう。例え命を救われた人だとしても、思い出の場所がなくなるということはつらく苦しい以上に、生きた心地がなかったのではないかと、草原になってしまった住宅街を見て思いました。

そして最終日、私達は「閖上の記憶」という場所へ足を運びました。閖上中学校の遺族会が建てた慰霊碑の社務所で当時中学生 だった閖上中学校の被災された生徒の名前がつづられていました。また、津波の光景や年に一度、亡くなった人々に届けるためにメッセージを書いた鴨(カモメのフーセン)をいっせいに空へ飛ばす様子を映像で見ました。その映像は、最後に「ごめんね、そしてありがとう、また来年送るね」という言葉をで終わりました。映像が終わった後、私は涙が流れるのを我慢できず、自分がいる場所はあの全てを飲み込んだ津波が来た場所なんだと改めて実感しました。誰もが苦しく悔しい思いをした4年前の出来事、それでも自分達が確かにそこに生きてきた「記憶」、津波によって多くのものを失った「記憶」というものは、誰もが忘れてはいけないことだと思いました。そして、この5日間、自分が住んでいる土地を離れ、行ったことのない何も知らない地域で活動をするというのは、不安がありましたが、そこで出会ったボランティアの人達と知り合い共に協力できたことは一番の思い出です。また何よりもみんなで無事に帰って来ることが出来て、今こうして毎日のように生活ができることを誇りに思います。