【宗教講話5月】  今年から、月に1回ですが、宗教講話の時間を作っていただきました。
聖書のことばを中心にその背景をいっしょに考え、今を生きるみなさんの「振り返り」と「道しるべ」の時間になればうれしく思います。
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土曜日、桑山さんの地球のステージ。感動しましたね。私の回りの生徒も泣いていました。
お客さんも、「先生ハンカチもってくるんでした。いい時間をありがとうございました。日星高校が好きになりました」って帰って行かれました。午後から、東舞鶴で公演がありましたが、日星のSクラブや看護科生が、西舞鶴高校のボランティア部や医療センター看護学校の生徒といっしょに会場の手伝いや募金をがんばっていました。
そんな桑山さんの思いにつなげて今日は、「苦しみや喜びをみんなで分かち合おう」ということについてお話ししましょう。そして、聖書のことばを一つ覚えていって欲しいと思います。1週間前、野球部がベスト4をかけた試合がありました。私もチアの皆さんと応援に行ってきました。残念ながら負けてとっても悔しい思いでいます。けれど、一番悔しいのは、春休みも学校が始まってからもずっと練習に打ち込み、ベスト8まで勝ち上がってきた野球部の皆さんなんだと思います。緊張で日頃の練習の成果が十分に出せなかった、うまく連携できなかった。あのボールがなかったら・・・そうした野球部の苦しさやそこからの新しいがんばりを共に苦しめる日星、共に喜べる日星でありたいなと思うのです。
それは、野球部だけでなく、一生懸命にがんばっているどのクラブの人にも言えることですし勉強がなかなか思うようにはかどらずに苦しんでいる人、自分の進路で不安に思っている3年生にも共通することですね。
私たちは、自分が苦しかったり辛かったりすると、弱い人にあたったり、無関心な自分をつくってスルーしますね。そのようなことが2000年前に書かれた聖書にも記されています。

 5月号の学校だよりや、坂の上の掲示板に平尾先生にも書いてもらっていますが、「コリントの信徒への手紙」の一節を見てくれましたか?
コリントというのは、長靴の形をしたイタリアのつま先の部分にあたる地方で、そこの教会のメンバーにキリストの弟子であるパウロさんが手紙を送ったのです。
キリスト教が広まるにつれて、このコリント地方では「様々な考えをもった人」や「俺が正しい。いや俺は間違っていない」と「好き勝手をする人」が現れて、教会が「てんでばらばら」になっていました。そのことに心を痛めたパウロさんが、次のように書いて送ったのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が 共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が 共に 喜ぶのです。」
「教会はキリストの一つの共同体」として「身体」にたとえて訴えたのです。
「もう一回、キリストの教会として一つになろう」「どこかでだれかが苦しんでいる時は、全ての部分がいっしょに苦しもう」って。

私たちの身体は、多くの部分から成りたっていますが、互いにつながっています。小さなとげが、足に刺さっただけで歩けなくなりますし、風邪引いて鼻がつまると物事に集中できませんね。
ですから足が「わたしは手ではないから足のことはしらない」とか、手が足に向かって「おまえはいらない」と言ったらどうでしょう。

  看護科の人は詳しいかと思いますが、身体には不要な器官は一つもありません。
つながりあって一つの身体ですね。「弱いとみられる器官が与えられている理由は、身体の中に分裂がなく、互いにいたわりあうためなのです。」とパウロさんは言っています。
 私たちは、元気でいる時は、気がつかないけれど、ケガをしたり、病気になった時、あらためて、自分一人で生きているのでないことに気がつきます。また、当たり前にできることのありがたさに気づきます。弱さは、誰かの支え、いたわりを必要とします。弱さがあるからこそ、私たちは助け合って「共に生きる」ことができるのです。
 地球のステージで見たように、世界中で手助けを待っている多くの人がいます。東北と「共にありたい」とつながり、何かあるといち早く行動してきた日星高校、また、桑山さんからも海外青年協力隊に行っていた原澤先生を紹介してもらいましたが、そんな先生がいることも私たちみんなの喜びです。
 熊本地震から一ヶ月がたちました。あとで坂本先生にのお話をお聞きします。
熊本地震が、私たちに忘れていたことを思い出させてくれました。
ここにいる1年生の皆さんの多くの人は、昨年、修学旅行で熊本で民泊をしたんですね。1年生にインタビューすると「あのお世話になった家族は大丈夫なんだろうか」と心配していました。1年生の人も、「生徒会ポスト」に「募金をやりましょう!」って書いてくれたそうです。
私も、「何かしなくっちゃ」って気持ちでずっといました。みなさんの中にもそんな気持ちで呼びかけを待っていた人が多いと思います。けど、やっぱり他人事にしている私がいたり、誰かがやってくれるのを待っている自分がいました。確かに、いろんなところで毎日何かが起こっていて、全部にかかわっていられませんし、 何かをするって面倒くさいし、見て見ぬふりして通りすぎると楽だって思います。けれども、やっぱりスルーできない。「何か役に立てないかな」って思う気持ちがあります。その気持ちにに正直に生きようよって、桑山さんに教えられました。
そうしたことの積み重ねが、生き方をつくっていくのだと思うのです。
キリストも「自分がしてほしいと思うことを人にしてあげましょう」と言っています。その言葉をささやかでも実践していくことが私たちの使命ではないでしょうか。

もう一つ思い出させてくれたこと、それは、当たり前の生活のありがたさでした。
先週、熊本では、全ての学校が再開されましたが、「みんなと久しぶりに会えるのが楽しみ。震災前には余り思わなかったけれど、普通に学校に行けること自体がうれしい。」と中学生の声も新聞に紹介されています。日常への感謝もまた、被災地から教えてもらったことなのです。

   熊本にかけつけたいと思っても、なかなかかないません。けれど、私たちが、ここにいてもできること。それは、今の自分をしっかり生きること。目の前の課題をしっかりやりきっていく。与えられた仕事や役割をしっかり果たしていくことでもあります。
桑山さんとの交流会で、4年生の人が、「今の自分にはたいしたことはできないけれど、しっかり勉強して、看護師になって桑山さんのように国際看護に役立ちたい」って言ってました。
そうした夢や思いをみんなで応援していくこともまた桑山さんの思いにつながり、熊本へのエールになるのではないでしょうか。
  パウロさんのいうように「一人の喜びをみんなの喜びに、一人のがんばりをみんなのがんばりにできる」仲間やクラスでありたいですね。
就職面接で、「あなたの学校はどんな学校」と聞かれたときに、「野球部が頑張っています。いつも応援していました。」といえば、野球部のがんばりがあなたのがんばりになります。また、先輩の大学進学の努力や看護の国家試験全員合格もまた、あなたの喜び、あなたの誇りなのです。みなさんは、日星という一つの身体の部分であり全体です。
  最後に聖書のことばをもう一度読んでおきましょう。
「部分は一つの身体です。各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
私たちが、互いにいたわり合い、一人ひとりに与えられた使命を生きることができますように。