宗教講話2話「私たちは一つの家族」オバマ大統領のスピーチより

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今日は、宗教講話2回目です。(2016年6月20日)
前回、聖書から パウロさんの「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」という所をお話ししました。
今日もまた、「私たちはひとつの身体である」というお話と「赦す」というお話をしたいと思います。
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 先日の体育祭では、一人一人がもっている力を精一杯発揮しましたし、みんなの心がつながった感動がありました。
100M走で、1年生が途中でころびました。足が不自由だけれども、すぐに起き上がって最後まで走り抜きました。どの色からも「頑張れー」という声援がありました。ゴールした後も、審判係の人が、武田君にかわってカードを箱に入れに行ってくれていました。
また、3年生(紅組女子)が1000m走で、足が痛くて悪く最後から苦しそうに走っていました。その時、黄色の男子2年生が、みんなの応援を代表して、黄色の旗をもって、ゴールまで伴走をしていました。みなさんからも大きな拍手が湧きました。とても感動的な場面でした。
そうしたことが自然にできるみなさんを素晴らしいと思います。
みなさん一人一人は、ばらばらの身体をもっています。けれど、その身体が、関わり合うことによってつながり、つながることでひとつの身体に、ファミリーになっていくのだと思います。
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 さて、アメリカのオバマ大統領が5月27日、広島をおとずれました。
原爆を落としたアメリカの大統領が、戦後71年目に被爆地広島を訪れるということに大きな意味があったと私は思っています。
オバマ大統領の演説は、このように始まりました。
「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?  」
 その演説の中で、オバマ大統領は「私たちは、人類というひとつの家族の一部である」と語っています。
we are part of a single human family
演説を続けましょう。
「なによりも、私たちは互いのつながりを見直す必要があります。
「同じ人類の一員としての繋がり」を。
私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。えらぶことができます。子供達に対して、暴力や戦争ではない別の道もあるのだと語ることができます。

 その物語は、被爆者の方たちが教えてくれます。

ある女性は、原爆を落とした爆撃機のパイロットを憎むのをやめ、許しました。
自分が、本当に憎んでいたのは「戦争それ自体だった」と悟ったからです。
ここ廣島で殺されたアメリカ人捕虜の家族を捜し出した被爆者の男性がいます。
家族を失う悲しみは自分も、アメリカ人の遺族も変わりないからといって。

人にはそれぞれかけがえのない価値があります。
すべての人の命は、かけがえのない価値があり、ひとつひとつが大切な命です。
そして私たちは「人類という一つの家族の一部である」という考え方です。
この根源的で、本当に求められている価値観、これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。
だからこそ私たちは、広島に来たのです。
私たちは、愛している人たちのことを考えます。
たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人との食卓での優しい触れ合い、
両親からの優しい抱擁、
そうしたかけがえのない瞬間が、71年前のこの廣島にもあったのです。
亡くなった方々は、私たちと全く変わらない人たちでした。
もはやこれ以上、私たちは戦争を望んでいません。科学の驚異を命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立てて欲しいと考えています。
予定されていた時間を超える、オバマ大統領の感動的な17分のスピーチでした。
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もちろん、戦争を起こした者には責任があります。また、原爆もまた、天から自然に降ってきたのではありません。原爆を落とした責任が、無くなることはないでしょう。大統領のスピーチに謝罪の言葉がなかった。反対に、原爆が戦争終結を早めたというアメリカの見方もまだまだ多くあるでしょう。
けれど、私は、内外の様々な利害を超えて、核兵器を無くすために「廣島へ行こう」と、自ら勇気をもって決断されたオバマ大統領に敬意を表したいと思います。
 スピーチ終えたあと 坪井すなお さん(91)、森重昭さん(79)という2人の被爆者に歩み寄り、言葉を交わし、森さんを抱きしめたオバマ氏。
「広島では、捕虜となったアメリカ兵も原爆犠牲者として追悼の対象になっています。彼らを含めた全犠牲者の追悼の意味でも、核をなくす祈りを広島から発信してください」
アメリカ兵の捕虜もまた原爆の犠牲者である――ほとんど知られていないこの事実は、オバマ大統領が抱いた森重昭さんその人によって発掘されたものだったのです。そうした被爆者の思いがオバマ氏の思いとつながり、大統領の広島訪問を実現させたのではないでしょうか。もし私が、原爆によって家族を失ったとしたら「亡くなった者を返せ」、「犯人を死刑にせよ」、と思うでしょう。これが遺族感情というものです。しかし、いくらもがいても、状況は何も変わらず、憎しみを抱えたまま時間だけが過ぎていきます。それもまた悲劇です。
  キング牧師がこう言っています。
「暴力は暴力を、憎悪は憎悪を、強情は強情を生むことを人は知るべきだ。これは悪循環となる。人間はらせん階段を落ちて行くように落ちて行き、ついには一人残らず破滅してしまう。だから、誰かが分別と道義とで、世界の憎悪と悪の連鎖を断ち切らなければならない。しかも、愛をもって」
聖書では、パウロさんがエペソの教会の人々に対してこう言っています。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」
コロサイの教会の人々に対しても「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい。」と宣言しています。
この二つの聖書の言葉の鍵となるのは、神が私たちを赦してくださった。だから、人をも赦さなければならないということです。なぜ、赦すのか?なぜなら、私たちもキリストの十字架によって赦されたからです。とキリスト教会では教えています。
主の祈りに、「私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します。」と唱えます。
なかなかできることではありませんが、加害者と被害者が、憎しみをもって向き合い続けるのでなく、こうした言葉を実行された方々。「原爆を落としたパイロットと出会い許された被爆者の思い」を心に刻みたいと思います。
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 広島や長崎の原爆は、日本人の上だけでなく、捕虜となったアメリカ人、兵士や工場で働かされていた朝鮮の人々の上にも落ちました。5000万とも8000万とも言われる第二次世界大戦の犠牲者には、国境はありません。
家族を失う悲しみは、自分も相手の遺族も変わりがないのです。
 私たちに愛する家族があり、おはようといいあえる友がいる。
同じように、71年前の広島の子供たちにも、また、今尚、戦争の中にある子供たちにも、
地震や津波で家族を失った子供たちにも、そうした平和があったということ、を忘れてはいけないし、私たちもまた同じ時代に生きているということを。私たちもまた日星という「一つの家族の一部」です。
私たちが、日々のくらしの中で、互いに関わり合いつながっていくこと
いたわり合い、許し合える関係を築くこと、そして思いを行動に移していくことがオバマ大統領の思いにつながっていくことではないでしょうか。
 少し、黙想して終わりましょう。

校長宗教講話「一つの部分が尊ばれれば」

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【宗教講話5月】  今年から、月に1回ですが、宗教講話の時間を作っていただきました。
聖書のことばを中心にその背景をいっしょに考え、今を生きるみなさんの「振り返り」と「道しるべ」の時間になればうれしく思います。
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土曜日、桑山さんの地球のステージ。感動しましたね。私の回りの生徒も泣いていました。
お客さんも、「先生ハンカチもってくるんでした。いい時間をありがとうございました。日星高校が好きになりました」って帰って行かれました。午後から、東舞鶴で公演がありましたが、日星のSクラブや看護科生が、西舞鶴高校のボランティア部や医療センター看護学校の生徒といっしょに会場の手伝いや募金をがんばっていました。
そんな桑山さんの思いにつなげて今日は、「苦しみや喜びをみんなで分かち合おう」ということについてお話ししましょう。そして、聖書のことばを一つ覚えていって欲しいと思います。1週間前、野球部がベスト4をかけた試合がありました。私もチアの皆さんと応援に行ってきました。残念ながら負けてとっても悔しい思いでいます。けれど、一番悔しいのは、春休みも学校が始まってからもずっと練習に打ち込み、ベスト8まで勝ち上がってきた野球部の皆さんなんだと思います。緊張で日頃の練習の成果が十分に出せなかった、うまく連携できなかった。あのボールがなかったら・・・そうした野球部の苦しさやそこからの新しいがんばりを共に苦しめる日星、共に喜べる日星でありたいなと思うのです。
それは、野球部だけでなく、一生懸命にがんばっているどのクラブの人にも言えることですし勉強がなかなか思うようにはかどらずに苦しんでいる人、自分の進路で不安に思っている3年生にも共通することですね。
私たちは、自分が苦しかったり辛かったりすると、弱い人にあたったり、無関心な自分をつくってスルーしますね。そのようなことが2000年前に書かれた聖書にも記されています。

 5月号の学校だよりや、坂の上の掲示板に平尾先生にも書いてもらっていますが、「コリントの信徒への手紙」の一節を見てくれましたか?
コリントというのは、長靴の形をしたイタリアのつま先の部分にあたる地方で、そこの教会のメンバーにキリストの弟子であるパウロさんが手紙を送ったのです。
キリスト教が広まるにつれて、このコリント地方では「様々な考えをもった人」や「俺が正しい。いや俺は間違っていない」と「好き勝手をする人」が現れて、教会が「てんでばらばら」になっていました。そのことに心を痛めたパウロさんが、次のように書いて送ったのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が 共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が 共に 喜ぶのです。」
「教会はキリストの一つの共同体」として「身体」にたとえて訴えたのです。
「もう一回、キリストの教会として一つになろう」「どこかでだれかが苦しんでいる時は、全ての部分がいっしょに苦しもう」って。

私たちの身体は、多くの部分から成りたっていますが、互いにつながっています。小さなとげが、足に刺さっただけで歩けなくなりますし、風邪引いて鼻がつまると物事に集中できませんね。
ですから足が「わたしは手ではないから足のことはしらない」とか、手が足に向かって「おまえはいらない」と言ったらどうでしょう。

  看護科の人は詳しいかと思いますが、身体には不要な器官は一つもありません。
つながりあって一つの身体ですね。「弱いとみられる器官が与えられている理由は、身体の中に分裂がなく、互いにいたわりあうためなのです。」とパウロさんは言っています。
 私たちは、元気でいる時は、気がつかないけれど、ケガをしたり、病気になった時、あらためて、自分一人で生きているのでないことに気がつきます。また、当たり前にできることのありがたさに気づきます。弱さは、誰かの支え、いたわりを必要とします。弱さがあるからこそ、私たちは助け合って「共に生きる」ことができるのです。
 地球のステージで見たように、世界中で手助けを待っている多くの人がいます。東北と「共にありたい」とつながり、何かあるといち早く行動してきた日星高校、また、桑山さんからも海外青年協力隊に行っていた原澤先生を紹介してもらいましたが、そんな先生がいることも私たちみんなの喜びです。
 熊本地震から一ヶ月がたちました。あとで坂本先生にのお話をお聞きします。
熊本地震が、私たちに忘れていたことを思い出させてくれました。
ここにいる1年生の皆さんの多くの人は、昨年、修学旅行で熊本で民泊をしたんですね。1年生にインタビューすると「あのお世話になった家族は大丈夫なんだろうか」と心配していました。1年生の人も、「生徒会ポスト」に「募金をやりましょう!」って書いてくれたそうです。
私も、「何かしなくっちゃ」って気持ちでずっといました。みなさんの中にもそんな気持ちで呼びかけを待っていた人が多いと思います。けど、やっぱり他人事にしている私がいたり、誰かがやってくれるのを待っている自分がいました。確かに、いろんなところで毎日何かが起こっていて、全部にかかわっていられませんし、 何かをするって面倒くさいし、見て見ぬふりして通りすぎると楽だって思います。けれども、やっぱりスルーできない。「何か役に立てないかな」って思う気持ちがあります。その気持ちにに正直に生きようよって、桑山さんに教えられました。
そうしたことの積み重ねが、生き方をつくっていくのだと思うのです。
キリストも「自分がしてほしいと思うことを人にしてあげましょう」と言っています。その言葉をささやかでも実践していくことが私たちの使命ではないでしょうか。

もう一つ思い出させてくれたこと、それは、当たり前の生活のありがたさでした。
先週、熊本では、全ての学校が再開されましたが、「みんなと久しぶりに会えるのが楽しみ。震災前には余り思わなかったけれど、普通に学校に行けること自体がうれしい。」と中学生の声も新聞に紹介されています。日常への感謝もまた、被災地から教えてもらったことなのです。

   熊本にかけつけたいと思っても、なかなかかないません。けれど、私たちが、ここにいてもできること。それは、今の自分をしっかり生きること。目の前の課題をしっかりやりきっていく。与えられた仕事や役割をしっかり果たしていくことでもあります。
桑山さんとの交流会で、4年生の人が、「今の自分にはたいしたことはできないけれど、しっかり勉強して、看護師になって桑山さんのように国際看護に役立ちたい」って言ってました。
そうした夢や思いをみんなで応援していくこともまた桑山さんの思いにつながり、熊本へのエールになるのではないでしょうか。
  パウロさんのいうように「一人の喜びをみんなの喜びに、一人のがんばりをみんなのがんばりにできる」仲間やクラスでありたいですね。
就職面接で、「あなたの学校はどんな学校」と聞かれたときに、「野球部が頑張っています。いつも応援していました。」といえば、野球部のがんばりがあなたのがんばりになります。また、先輩の大学進学の努力や看護の国家試験全員合格もまた、あなたの喜び、あなたの誇りなのです。みなさんは、日星という一つの身体の部分であり全体です。
  最後に聖書のことばをもう一度読んでおきましょう。
「部分は一つの身体です。各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
私たちが、互いにいたわり合い、一人ひとりに与えられた使命を生きることができますように。

いつくしみの年に

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「私たちもまた、
愛と共感、
いつくしみと連帯を
人生の道とすること。

私たちの互いの関係における行いの
綱領とすることを求められています。
(教皇フランシスコ いつしみの特別聖年に)

新年明けましておめでとうございます。

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今年が、皆様にとって平和で幸せな年になりますように
新年に当たり、教皇フランシスコの「クリスマスメッセージ」を贈ります。

教皇フランシスコ、
2015年12月25日の降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ) より抜粋

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、クリスマスおめでとうございます。
キリストはわたしたちのためにお生まれになりました。わたしたちの救いの日を大いに喜びましょう。

この日の恵みを受けるために、わたしたちの心を開きましょう。その恵みはキリストご自身です。イエスは人類の地平に夜明けをもたらす、輝かしい「日」です。御父が全世界に対するご自分の限りない愛をお示しなるいつくしみの日。恐れと不安という暗闇を一掃する光の日。出会い、対話、そしてとりわけ和解をもたらす平和の日。さらには貧しい人、謙遜な人、そしてすべての人のための「大きな喜び」の日です(ルカ2・10参照)。

イエスだけが、イエスのみがわたしたちを救うことがおできになります。神のいつくしみだけが、わたしたちの中で利己主義が生んだ多様な悪、ときには恐ろしいほどの悪から人類を解放することができます。神の恵みは回心をもたらし、解決の糸口を見いだせない状況から抜け出す方法を人類に教えます。

神がお生まれになるところには、希望が生まれます。そして希望が生まれるところでは、人々が自らの尊厳を取り戻します。今日でも数え切れないほど大勢の人々が、人間としての尊厳を奪われ、幼子イエスのように、寒さ、貧しさ、そして人々からの拒絶に苦しんでいます。もっとも弱い立場にある人々、とりわけ少年兵、暴力に苦しむ女性、人身売買や麻薬取引の犠牲者に、わたしたちが今、寄り添うことができますように。

極度の貧困や飢餓から逃れ、多くの場合、非人間的な状況の中で、いのちがけで旅をしている人々に、絶えず励ましを送ることができますように。大勢の移住者と難民が、自分と自分の愛する人々の尊厳ある未来を築き、受け入れ社会に溶け込めるよう、彼らを助け、受け入れるために盛んに活動している個人と国家に、豊かな祝福が与えられますように。

神がお生まれになるところでは、いつくしみが花開きます。いつくしみは、神から与えられるもっとも尊いたまものです。とりわけこの聖年の間、わたしたちは、天におられる御父が各自に示してくださる優しさを見いだすよう招かれています。

ですから、わたしたちの救いの日を今日、ともに喜びましょう。馬小屋を見つめ、両腕を広げたイエスに目を向けましょう。そこには神のいつくしみに満ちた抱擁が表れています。そして、幼子イエスのささやきに耳を傾けましょう。「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。
(2015.12.27)

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