引き揚げの「語り部」募集されています

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高校生もぜひ応募してください。

広報まいづる1月号より

平和の鐘をならそう

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72年目の終戦記念日 引揚記念館では、正午の黙祷に続き、ユネスコ協会の皆様と「平和の鐘」をならしました。

戦後72年 堺の高校生の記事

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【戦後72年】堺の空襲の記憶継ぐ 地元高校生が証言をビデオに

【戦後72年】堺の空襲の記憶継ぐ 地元高校生が証言をビデオに

堺大空襲について話す花澤廣子さん=堺市北区

(産経新聞)

 第二次大戦末期の昭和20年、5回にわたって堺市内を襲った空襲の記録を残そうと、同市堺区の高校生らが、当時を生き抜いた被災者らの証言をビデオ録画する活動に取り組んでいる。15日で戦後72年となるのを前に、戦争体験者が減り続ける中、生徒らは「つらい話もあるが、生の声を聞ける最後のチャンス。きちんと記録に残し、後世に伝えていきたい」と意気込んでいる。(猿渡友希)

「あの悲惨な情景は忘れられない」

今月上旬、同市北区に住む花澤廣子さん(95)が当時の地図を前に、堺大空襲について語り始めると、カメラを構えた府立三国丘高校定時制課程2年で放送研究会2年の長谷(ながたに)樹亨(たつあき)さん(18)が聞き入った。

花澤さんは24歳だった昭和20年当時、同市新在家町(現・堺区新在家町西)で家族とともに暮らしていた。町中には戦意高揚の歌があふれ、はちまきをして護身術の訓練を繰り返す日々を送っていたという。

7月10日、突如として数機のB29が上空に現れた。「数え切れないほどの焼夷(しょうい)弾が落ち、一面は火の海になった。無我夢中で火の手から逃げた」と花澤さん。「翌朝、町中には死体が累々と積み重なっていた」と語り、「すごい時代だったが、そんな中を生きて抜けて幸せだった」と締めくくった。

長谷さんが所属する放送研究会は、高校生らが堺の歴史を研究・発表する「日本と世界が出会うまち・堺」プロジェクト(堺市など主催)に参加するため、今年6月から週1回のペースで、勉強会を実施。戦時中の堺市について学んできた。古くからある寺などを訪れて当時を知る人を探し出し、花澤さん以外にも戦争体験者2人から話を聞いた。

そのうちの一人、同市堺区の浄得寺の前住職、松井一覚(いっかく)さん(85)は堺大空襲の際、焼夷弾が落ちてくる「サー」という雨のような音に気づいて家族に伝え、危うく難を逃れた。あっという間に辺り一面が火の海に。無我夢中で逃げるあまり家族ともはぐれたが、翌朝戻った寺で無事再会を果たしたという。

長谷さんらは今後もさらにこうした証言を拾い集め、11月のプロジェクトで発表する予定だ。放送研究会顧問の川端祥次教諭(53)は「生の声を聞ける最後のチャンス。戦争の記憶を何とか形に残したい」。長谷さんは「自分たちの住む街なのに知らない事実ばかり。その時代を生きた人から直接話を聞く重要性を学んだ。今後も戦争について勉強を続けていきたい」と話している。

戦後72年 若者から

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[戦後72年 学び、伝える 下] 世界へ「平和」訴える 広島大学3年生 神徳菜奈美さん(22)

留学生のために案内のリハーサルをする神徳さん(左から2人目)とサークルのメンバー(広島県東広島市で)

唯一の被爆国 風化させない

広島大学3年生の神徳菜奈美さん(22)は、留学生に英語で原爆について説明するサークル活動を続けています。

1945年8月6日に広島市に投下された原爆で死亡したのは、その年だけで約14万人。全身にやけどを負い、建物の下敷きになり、あるいは白血病で、命が次々奪われました。

「この事実を風化させるわけにはいきません。日本は唯一の被爆国として、世界に向けて平和を訴え続ける使命があります」と決意を固めます。

証言など翻訳 留学生に解説

メンバーは8人。主な活動は毎年8月6日、広島市の広島平和記念公園内の慰霊碑・石碑の案内です。例えば「原爆の子の像」の前では、2歳で被爆し10年後に白血病で亡くなった少女・佐々木禎子さんについて語り、小学校の同級生の募金活動で像が作られたこと、その像が世界平和を呼び掛けている意味などを説明します。

解説するために被爆者から話を聞き取り、史実を勉強。証言や記録を英語に翻訳して、資料を作ります。

今年は米国、ドイツなどからの留学生約40人が参加し、公園内の石碑などを5カ所巡りました。「同年代の若者が原爆について懸命に調べている姿に、関心が高まりました」「被爆者の話をじかに聞きたいと思いました」「勉強になりました」などの声に手応えを感じるそうです。

同世代の言葉共感呼ぶはず

茨城県出身の神徳さんは大学進学をきっかけに、「せっかく広島県に来たのだから、原爆について学ぼう」とサークルに入りました。「川は死体で埋め尽くされ、死体を山積みにして火葬したんよ」という被爆者の話を聞いて、しばらく声が出なくなるほどの衝撃を受けました。

過去の自分がそうだったように、戦争に関心が薄い若者が多いと感じています。そういう人たちの心を動かそうと、戦争や原爆について理解を深めるように努めてきました。

資料館へ通うだけでなく、一人でも多くの被爆者に会うことを心掛けます。高齢で亡くなっていく被爆者が増え、間もなく体験が聞けなくなる、という焦りにも突き動かされます。今のうちに少しの聞きもらしもないように話を吸収し、その体験について、自らが感じた恐ろしさ、悲しみ、怒りも含めて伝えていこうと考えます。

「平和が大切だ、というのは子どもでも分かります。それをどこまで深く考え、実際に平和を守る行動に移せるのかが、私たち若い世代に問われています。同世代の言葉だからこそ、共感してくれることもあるはずです」

国連で7月に採択された核兵器禁止条約で、日本は不参加を表明しました。これに対し神徳さんは「とても悲しいです。日本はどんな理由があろうと、核なき世界を訴えるべきです。政府はこの国民の声を拾い上げ、世界の核兵器廃絶を進めてほしいです」と強調します。

サークルを立ち上げた佐々木須美子さん(65)は「若者が原爆について学び留学生に伝える活動をすることで、世界に“平和の種”をまくことができます」と話します。

考え、思いの共有を 広島大学平和科学研究センター長 川野徳幸さん

広島大学平和科学研究センターの川野徳幸センター長は「若い世代には、過去に起きた事実を客観的に捉え、未来に向けて色あせないように伝えてほしい」と指摘。単に、聞いたことをそのままつなぐリレーではなく、受け継いだ事柄について考え、思いを共有するべきだと訴えます。

その上で、「同世代へ、そして次代へとつなぐため、若い力で貪欲に学んでほしい」と期待します。

(日本農業新聞web版8月10日より)

大室さんの講話「国際支援とは」 世界は動いている

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京都新聞より

2年前、シリア難民支援の途上で

日星高校看護科生へもお話をいただいた大室さんのお話会が12日にありました。

大室さんは2011年から2年間ウズベキスタンにおられたとのこと

日星高校にも是非きていただきたいですね。

世界はつながっている。

戦後72年 高校生の記事

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[戦後72年 学び、伝える 上] 流れる涙 真実を映す 名古屋市・同朋高校放送部 津田琉伊さん(17)

ドキュメンタリー作品の映像を確認する津田さん(中央)。元兵士の苦悩が伝わる作品を目指している(名古屋市で)

歴代の放送部員が取材した元兵士の証言をまとめたノートや映像テープ

 体験者の高齢化が進み、語り継げる人が年々減り続けています。そんな中、戦争の記憶をつなぎ、平和への思いを発信しようと若い世代が活動しています。何を学び、伝えるか。彼らの姿から考えます。

教科書にない記憶をたどる

名古屋市の同朋高校放送部3年生、津田琉伊さん(17)は映像ドキュメンタリー作品の制作リーダーとして、太平洋戦争で戦地へ赴いた元兵士の証言をまとめています。

「死ぬと分かっていても、仲間は敵の戦車にぶつかっていった」「私は殺人兵士になってしまった」――。教科書では学べない、戦いの最前線の記憶を作品に刻みます。

放送部は25年前から、戦争をテーマにした作品を手掛けています。取材対象は主に、中国や沖縄で戦った経験を持つ近藤一さん(97)ら元兵士たち。津田さんは入部した1年生の時に作品を見て、衝撃を受けました。

「授業で勉強した戦争は、何年にどこでどんな出来事があって、指導者がどう動いたかということでした。実際に兵士たちの身に何が起きたのか、全く知りませんでした」

奪い奪われたたくさんの命

その年、津田さんは部員と共に三重県に住む近藤さんを訪ねました。中国兵捕虜を刺殺する訓練、そこで覚えた人を殺す感覚、米軍の火炎放射器で焼き殺される仲間たち。近藤さんは目から大粒の涙を流しながら「たくさんの命を奪ってしまった」と自らを責めつつ「兵士は虫けら以下に扱われ、次々殺された」と憤りました。

90歳を過ぎても、当時の記憶に今なお苦しむ日々。その姿を目の当たりにして、津田さんは戦場のむごさにあぜんとしました。

「誰もが加害者にも被害者にもなり得ます。戦争では、僕たちと変わらない世代がつらい経験をしたと分かりました」。このことを伝えなければならないと、昨年から、5人の部員とドキュメンタリー制作を始めました。

元兵士らは高齢となり、改めて取材するのが難しくなっていました。そこで、先輩たちが残してくれた記録から戦場の証言を探しました。映像は計180時間。殺し、殺された生々しい記憶を掘り起こしています。

(日本農業新聞web版8月8日より)

広島・長崎 72年目の平和宣言 「共に生きる世界を」

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平和宣言【平成29年(2017年)】

平和記念式典写真 平和宣言を読む松井市長

広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。

 

平和宣言

 

皆さん、72年前の今日、8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍(しかばね)。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が、焼けただれ裸同然で剝(は)がれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前の川は死体で覆われ、河原は火傷(やけど)した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」である原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、放射線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた人々の人生をも大きく歪めてしまいました。

このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。

それ故、皆さんには是非とも、被爆者の声を聞いてもらいたいと思います。15歳だった被爆者は、「地獄図の中で亡くなっていった知人、友人のことを偲(しの)ぶと、今でも耐えられない気持ちになります。」と言います。そして、「一人一人が生かされていることの有難さを感じ、慈愛の心、尊敬の念を抱いて周りに接していくことが世界平和実現への一歩ではないでしょうか。」と私たちに問い掛けます。

また、17歳だった被爆者は、「地球が破滅しないよう、核保有国の指導者たちは、核抑止という概念にとらわれず、一刻も早く原水爆を廃絶し、後世の人たちにかけがえのない地球を残すよう誠心誠意努力してほしい。」と語っています。

皆さん、このような被爆者の体験に根差した「良心」への問い掛けと為政者に対する「誠実」な対応への要請を我々のものとし、世界の人々に広げ、そして次の世代に受け渡していこうではありませんか。

為政者の皆さんには、特に、互いに相違点を認め合い、その相違点を克服するための努力を「誠実」に行っていただきたい。また、そのためには、核兵器の非人道性についての認識を深めた上で、自国のことのみに専念して他国を無視することなく、共に生きるための世界をつくる責務があるということを自覚しておくことが重要です。

市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないということを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有することは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありません。

今や世界中からの訪問者が年間170万人を超える平和記念公園ですが、これからもできるだけ多くの人々が訪れ、被爆の実相を見て、被爆者の証言を聴いていただきたい。そして、きのこ雲の下で何が起こったかを知り、被爆者の核兵器廃絶への願いを受け止めた上で、世界中に「共感」の輪を広げていただきたい。特に、若い人たちには、広島を訪れ、非核大使として友情の輪を広げていただきたい。広島は、世界の人々がそのための交流をし、行動を始める場であり続けます。

その広島が会長都市となって世界の7,400を超える都市で構成する平和首長会議は、市民社会において世界中の為政者が、核兵器廃絶に向け、「良心」に基づき国家の枠を超えた「誠実」な対応を行えるような環境づくりを後押ししていきます。

今年7月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。また、平均年齢が81歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々に寄り添い、その支援策を一層充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

私たちは、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げ、世界の人々と共に、「絶対悪」である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。

平成29年(2017年)8月6日      広島市長 松井 一實

平成29年 長崎平和宣言

長 崎 平 和 宣 言

「ノーモア ヒバクシャ」

この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。

核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。

私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。

しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。

核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。

安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。

日本政府に訴えます。

核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。

また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。

 

私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。

あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。

世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。

人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。

世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。

今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。

被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。

福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。

原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

2017年(平成29年)8月9日  長崎市長  田上 富久

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