真愛の家敬老式典

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真愛の家の敬老式典に参加しました。真愛の家は、本年50周年を迎えます。京都府で一番早くできた特別養護老人ホームを開設したのは、レデンプトリスチン修道会のシスター達。日星高校と同じカトリックの精神で「イエスは、苦しむ人、悩む人、虐げられた人に生涯を捧げられた。その精神に倣って生きよう」と奉仕を続けてこられ、現在の社会福祉法人に引き継がれています。

舞鶴市の60歳以上の方の割合は30%になるそうです。高齢者の自立と活躍の場も必要ですね。

交流のあるアルマザール校へ

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・学校は夏休みで9月から新年度がはじまります。生徒もパラパラ登校していました。

・中央アジアにおける日本語教育の中心である国立東洋学大学。その付属アルマザール校(リツエイ)を訪問しました。抑留者資料館長スルタノフさんの孫リスラットさんが通っていた高校で、日本語が第1外国語となっているそうです。
・400名が8か国語を勉強しており日本語学科は30名いるそうです。
(英語、ロシア語、アラビア語、ペルシャ語、インド語、中国語、韓国語、日本語)
アルマザール校は、本校と2年後に本校と統合されます。
本校は500名の学校で、日本語学科が30名あるとのこと。
統合を意識せずに交流を続けていきましょうと校長先生の力強いお言葉をいただいた。

私から、これまでの日星高校とアルマザール校との交流について話しました。
舞鶴市が東京オリンピックのホストタウンとしてスポーツや文化交流を進めるその一環として両校の交流を進めたいとの希望を述べました。

(校長先生から)
リソラットさんとの出会いをきっかけに両校が交流をはじめ、大変喜んでいる。
・どの家庭でも、ナボイ劇場建設に携わった抑留者にふれ日本人の勤勉さについて語り継いでいる。だれもが日本のことを知っている。
ロシアでサッカーの世界選手権大会があったときには、みんな日本チームを応援した。日本の大学でもウズベキスタンを専門に取り扱っている大学は少ないと聞いた。日本でもウズベキスタンのことをもっと知って欲しい。

日本に関心を持っている生徒も多く、これからも日本語、英語だけでなくロシア語なども含めてネットを通じて交流をしていきましょう。とお話をいただきました。大使館や大学もサポートしてくれるだろう。

おじいさんの時代に関係が生まれ、
私たちの時代にも関係が続いている。
さらに、子どもたちの時代にこの関係がもっと強くなり続いていくことを願う。

私から、ウズベキスタンで働いた抑留者が、日本に帰りその第一歩を踏み出した町が舞鶴です。
そのご縁をもっとしっかり勉強し、友好につなげていきたいと述べると
校長先生は「その話を市長にも報告します。」と言ってくださった。

校長室にも玄関にも大統領の額が掛けてあった。

全校のみんなで折った千羽鶴。書道部の色紙そして

マンガの「この国の片隅で」と「ちはやふる」を贈った。

廊下の壁には「授業中のスマホ禁止」のポスターも貼ってあった。

抑留者資料館訪問

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日本人墓地のあるモスクから道を隔てたところにその建物がありました。建物は、元スロバキア大使館だったものを改装して使っているとスルタノフさん。
玄関の右の柱には「1940年代にウズベキスタンで生活していた日本人の記録」資料館と日本語で書いてありました。左の柱にはロシア語で。

あらかじめ約束してもらっていたので、中へ入るとジャリル・スルタノフ氏が孫娘のリスラットさんと出迎えてくださった。

2年前に安倍首相に招待されて来日されたその足で引き揚げ記念館を訪問され、日星の特進コース1年生がお迎えしたのが出会いのきっかけ、スルタノフ氏もリスラットさんも、舞鶴で会ったことを覚えていただいていました。

スルタノフ氏が、映画「ヒイラギ」(2003年に氏が制作ー日本人の残した建物などのエピソード)を見たかと聞かれ、「事前に見てきました」と答えると、展示してある資料を一つ一つ丁寧に説明をしていただいた。

この資料館にある、全ての資料はスタルノフ氏がコツコツと集められたもの。

日本人抑留者の住んでいた場所と人数が地図に落とされ、さらに当時の強制労働の写真、日本人墓地の変遷の写真、ここを訪問された方からの手紙などが小さな資料室の壁一面に展示されている。

「ナボイ劇場」の建築工事中の写真もある。
当時の抑留者が作ったという机や乳母車、釘を使わない日本の建具の方法で作られ、今も、揺れ続けています。勤勉な日本人とウズベキスタンの普通の人との交流のようすが伺えます。

まったく、民間のスルタノフ氏が、時空を超えてこうして日本とウズベキスタンとのつながりの基礎をつくってくださったことに感動です。

スルタノフさんは、今、ひいらぎの2作目を編集中で、2万人の抑留者の生活を描いているそうだ。

当時の加藤ウズベキスタン大使からの表彰状、安倍首相からの叙勲、あの昭恵夫人のメッセージ、それらの写真にに混じって我が舞鶴に来られた時の写真も掲示されていた。
入口近くに多々見舞鶴市長からのメッセージと感謝状も展示されている。
こうして一市民が、日本人の抑留者の歴史を掘り起こし記録し、私設の資料館を作り、維持してこられたことにやはり一市民として尊敬する

当時の加藤ウズベキスタン大使からの表彰状、安倍首相からの叙勲、あの昭恵夫人のメッセージ、それらの写真にに混じって我が舞鶴に来られた時の写真も掲示されていた。
入口近くに多々見舞鶴市長からのメッセージと感謝状も展示されている。
こうして一市民が、日本人の抑留者の歴史を掘り起こし記録し、私設の資料館を作り、維持してこられたことにやはり一市民として尊敬する。

館長のスルタノフ氏とリスラットさんに日星高校とウズベキスタンの交流の歴史をお話しする。

2年前の来鶴時に言われたこと
「ウズベキスタンを知らない日本人は多いと思うが、我々は日本にたいへん親しみを感じている。両国の特に若い人たちの交流が盛んになることを期待している。
若者は自国の歴史にあまり興味をもたないが、戦争のつらい時代にも是非関心をもってほしい。
日本人がウズベキスタンに抑留され、地元の人たちとも交流をもっていたことを知ってほしい」
とても印象に残っている。

書道部からの色紙などのおみやげをお渡しし「10月に来られる時に、日星高校にもぜひ来てほしい。メッセージと踊りを踊ってほしい」とお願いした。

 

ヤッカサライ 日本人墓地

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空港近くのヤッカサライにある日本人墓地へ案内してもらった。

戦争が終わった後にソ連の強制労働のためにこの地まできて亡くなった78名の墓地。1人1人の名前と出身の都道府県が墓碑に刻まれている。

「永遠の平和と友好・不戦の誓いの碑」と書かれ、裏側には個々に眠る78名の名前と出身県が。

舞鶴から持ってきたろうそくと線香に火をつけ日本から遠く離れた中央アジアで亡くなった若者のことを思いながら手を合わせてきました。

ウズベキスタン全体に2万人以上の兵士が強制労働させられた。
この墓地には、ウズベキスタン全体 の死者470名の碑もある。
ソ連全体で57万5千人抑留者の20%以上の5万5千人死者があったそうだが、ウズベキスタンでは圧倒的に少なくそれは、ウズベキスタンの気候と人たちがよくしてくれた証とも言える。
私たちが訪れたときは、墓守の3代目ファジーロフ氏が、墓地内の花に水をやっておられた。
そして墓参の折には見守って下さった。帰り際にファジーロフ氏にお出会いした。まだまだお元気そうであった。日本政府から勲章を授与されている。
このような方のお世話によって日本人墓地が維持されている。感謝。

ここには、「日本に帰って一緒に桜を見よう」と誓った仲間たちのために中山恭子氏が桜の木を植えられ、安倍首相も来られたそうだ。

 

 

 

タシケント ナボイ劇場

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抑留者が、建設に携わったナボイ劇場。タシケントの中央の公園や博物館のある一角に堂々とたっておりました。

「捕虜であるにもかかわらず勤勉に働くそんな日本人をいつしか尊敬の念をもってみるようになった」

しかも1966年に起きたタシケント大地震にも壊れることなく立ち続ける姿をみて、一層、尊敬の念が深まったという。
「大きくなったら日本人のような人間になれと」伝えられていると。

永田少尉が「俺たちの目標は生きて全員が日本へ帰ること」と言ったその言葉が捕虜となった日本兵に希望を持たせ、かつ、懸命に働く意欲とつながったのだ。

外の壁に3カ国語で書かれた銘板がある。

「1945年から1946年にかけて極東から強制移住させられた数百名の日本国民がこのアリシェル・ナヴォイ劇場建設に参加し、その完成に貢献した」という日本語を読む。
私も、2016年の1月にスルタノフさんが舞鶴にこられるのを契機に勉強して初めて知ったこと。
『アンビリーバボー』でもみて改めてそうした日本人がいたことを知る。
引き揚げ記念公園にある「タシケント第4ラーゲリの桜」が現実味をおびてくる。

カリモフ 大統領によってこうした碑文が書かれたことに、ソ連とウズベキスタンの歴史を感じる。
ウズベキスタンもまたソ連の内植民地であり、戦争は自分たちがしたのではないという意識もあろう。1991年の独立は、ソ連とは違うウクライナという生き方。欧米化でもない新興国日本を見習おうという方向性の中で日本への敬意を表し、捕虜や抑留者でもなく日本国民として見るというスタンスを表しているのだと思う。

 

砂漠を行く。シャフリサブスへ

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23日は、サマルカンドから南へ車で2時間のシャフリサブスへ。険しい山道を避け、砂漠の中の高速道路を120キロで飛ばす。後半の道路は舗装がひどくてバンピングで大変。その横をロバにのったおじいさんやテクテク歩きの子供やスイカ売りの女性などが混在する風景。
・何よりも砂漠には雨が降らないみたいで、草も生えない。荒涼とした西部劇のような風景が続く。
・植物は枯れ、花も葉も実も棘がある-砂漠で生き残るための智恵なんだ。
・川や用水路で水があるところは緑で、綿やコーンなどが植わっている。水に感謝の生活。
・緑の山に囲まれている日本という国は災害があっても本当に恵まれた国だと思う。

広場の真ん中にティモールの像。ここは生まれた場所だから立像。サマルカンドは座像。タシケントは馬像
結婚式を済ませたカップルが何組も記念写真。
以前は、町が真ん中にあったそうだが、すでに立ち退きが終わっており一大観光スポットとして整備中。5日からの国際音楽祭に向けて花壇やモニュメントなど作成中。
モスクの庭には、樹齢600年以上というポプラの太い幹があい、涼しい風を運ぶ。ここでも二人の大人が礼拝をしていた。

サマルカンド レギスタン広場

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・シルクロードの町サマルカンド

・レギスタンとは『砂地』ミナレットをよく見るとピサの斜塔のように傾いているものもある。
・レギスタン広場は、他の土地から来た隊商が始めに到着する場所であったり、謁見式・閲兵・催し物が行われる場所でもある。
・シェルドル(ライオン)・マドラサ(神学校)にはライオンが、小鹿を追いかけている絵が描かれている。
そしてライオンの背中には、人面のある太陽。
イスラム教義では、人間と動物をモチーフにするのは厳禁。だが、支配者が自分の権力を誇示するために描かせたという。
子鹿は知識、ライオンは生徒、太陽は先生の象徴
中は元神学校、2階は寮、今は土産物売り場になっている。

夜には、ライトアップ。そしてプロジェクションマッピング

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