ようやく、待ちわびた雪融けか?

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長い間、雪に覆われていたグランドにようやく土色が戻ってきました。待ちわびていた野球部員たちが、まだぬれたグランドでその土の感触を味わっています。

今日から2年生は学年末テスト

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2年生は、今日から学年末テストに入ります。いよいよ2年生の総決算です。試験が終わると、沖縄への学習旅行がまっています。生徒たちは気を入れています。

被災地の今と必要な支援を考える報告会

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土曜日は、ステラソルの山内さんと今安さんが12月に被災地へ物資を届けられた報告会がありました。一年たつ今、まだまだ何にも進んでいない現実。被災した中学校の校庭に山積みにされたがれきの上に雪が積もっていました。
がれきといってもどれも大切な家や思い出の品であったという事実。毎日これをみている被災者達のやるせない心情をうかがうことができました。また、仮設住宅の中にも物資が届くところと届かないところという格差が生まれているという裏側も話され人間の業を感じる場面もありました。しかし、それは圧倒的な物資の不足から生じているのではないでしょうか。分かち合うことへの遠い道のりでもあります。

日曜日、日星同窓会の先輩でもある鷲田まりさんたちが活動している「難民を助ける会」主催の報告会がありました。
1月に南三陸町を訪れた市民3名の報告。続いて会の東北事務所長の野際紗綾子さんからの報告。
戦争や災害があると取り残されてしまう高齢者や障害者に視点をあてた支援。
それがこの会のもっている精神であり目の高さだとおもいました。
「どんどん関心がうすれている」現実。復興は10年かかるだろう。だから今すぐできずとも、「何ができるだろうか」と関心を持ち続けてほしい。そうすれば、必ずや動ける時が来ます。とのお話を聞き、学校で生徒たちと共に考え行動することの大切さを思っていました。


感動的な卒業式

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校長式辞、来賓の市長さん、育友会長さん、日赤の院長さんの3名の祝辞
そして卒業生代表の池田くん。涙で5年間を振り返った前川さん。
みんな3.11以降の物の見方、生き方についてふれ、感謝と絆を考えさせられるとても感動的な式となりました。

  式 辞

 本日ここに、卒業証書授与式を挙行するにあたり、多々見舞鶴市長様をはじめ多くのご来賓と保護者の皆様に御臨席賜りましたことに高段からではありますが、厚く御礼申し上げます。
 さて、高等学校の全課程を終えた卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
皆さんには、入学に当たって、高校生活への思いを書いてもらっていました。そして、「日星高校でよかった」と卒業の時にいえる三年間を送って欲しいと話しました。皆さんの高校生活は、どうだったでしょうか。
 中学時代に不登校だったけれど、高校では元気に三年間を通した人。
こつこつと勉強をがんばり大学合格を果たした人。
「働くことで人のために役立ちたい」と就職を決めた人。
 進学希望者は志望校に全員合格しましたし、就職希望者もこの経済不況の中ほぼ百%の内定を得ることができました。
 進学コースの人たちは、八時間目までの授業や土曜講座そして課外など本当によくがんばりました。今日も受験に挑戦している人もいます。そうした努力の結果が、みなさんの夢を確かなものに変えました。本当におめでとう。
 看護科の皆さんは、五年間という長い期間ではありましたが、知識や技術のみならず、看護の心を育ててきました。四月からは、もう一人前の看護師さん。みなさんがたどりついた「患者さんや家族の立場に立った看護」で、笑顔をひろげて欲しいと願っています。
 皆さんが、本校で培った最後まであきらめない粘り強さは、きっと人生の節々であなたたちの生きる糧となるでしょう。
 ある生徒は、卒業を前に「日星高校で、我慢すること、あきらめなければ絶対に何とかなるということを学んだ」と書いています。
 みなさん一人一人が、そんな思いをもって今日の日を迎えました。
 本当によくがんばりました。私は、そんな成長したみなさんを誇りに思います。

さて、丁度、一年前の三月十一日、大震災が起こったとき、当時二年生の皆さんと私たちは、韓国学習旅行でソウルにいました。テレビに映し出される信じられない光景に驚き、成田空港が閉鎖されており、日本に帰れないかもしれない。そんな不安の中で、危機を共有していきました。そして、いろんな人の働きのおかげで無事に帰ってこられたこと、待っててくれる家族があることのありがたみを改めて感じました。
 私たちが、被災を免れたのは、ほんの偶然です。だからこそ「私たちにできることは何か」をいっしょに考えてきました。
 関心を持ち続け、「共にありたい」との想いを行動に表してきた一年です。
 生徒会の呼びかけでいち早く始めた支援の募金活動。自分たちが一生懸命やることが、被災地に勇気を届けることになると、心ひとつに取り組んできた体育祭や文化祭、そして、クリスマスには、全校で一万羽の鶴を折り、思いを、願いを、東北に届けてきました。
 看護科では、福島と宮城の二つの高校で同じ看護師を目指す被災した学生を激励する活動に取り組み、私たちも元気と勇気をもらいました。
 初めの聖書の朗読にあった「小さき者とあれ」は、聖ヨゼフ学園の建学の精神であり、これからの人生の指標です。そうした日星高校で培った「人と共にあること」「人のために役立つこと」「心豊かに」を忘れないでいてください。
 福島の原発の事故は、便利さを求めて走ってきた私たちのくらしの有り様を根本的に見直すきっかけにもなりました。また、利害が対立するものをどう調整し、問題を解決していくのか。この命題は、私たちにも、皆さんにも投げかけられています。
 だからこそ、不断の勉強が必要なのではないでしょうか。
 皆さんが出て行く社会は、先行きの見えない困難な道です。
 私の好きな言葉に「暗いと不平をいうよりも進んで灯りをつけましょう」という言葉があります。困難に出会っても、人のせいにせず、どうか、灯りを高くかかげあきらめずに歩んでください。
 一人では不安です。困った時、苦しい時に頼れるのは、やっぱりここ、高校時代に培った仲間、母校・先生です。これからも互いに助け合い、また、感謝の心を忘れずに進んでくれることを願います。
 
 後になりましたが、保護者の皆様にお祝とお礼を申し上げます。
 本日はお子様のご卒業おめでとうございます。
 私たち教職員は、皆様のご期待に十分応えられたとは思っておりません。にもかかわらず、皆様の物心両面にわたる多大なご支援、ご協力を賜り、本当にありがとうございました。
 三年生全員が、卒業を前にしてお父さん・お母さんに手紙を書きました。
 少しだけ、のぞかせてもらったのですが、そこには、これまで育ててくださった事への感謝の気持ちがあふれています。
「いっぱいわがまま言って迷惑をかけました。私立でお金もたくさんかかったけれど、初任給でお返しするね。本当にありがとう。」
「休むことが多くて心配をかけました。これからは社会人として何事も自分でやらなくてならないのでしっかりがんばります。」
「二人は、自慢の親です!僕を産んでくれてありがとう。大学でもがんばるから応援をお願いします。」
 私からも保護者の皆様に、また、支えてくださった多くの方々に「ありがとうございました。」と感謝の気持ちをお伝えします。
 卒業し、社会に出て行くといってもまだまだ未熟な若者です。これからも人生の先輩として、どうぞ温かく見守っていただきたく思います。

 卒業生のみなさんのご健康とご多幸と神様の豊かな祝福をお祈りし、私の式辞と致します。
 
  2012年2月25日
      
      聖ヨゼフ学園日星高等学校   校長 水嶋純作

『小さき者とあれ』

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昨日掲載の 「マタイによる福音25章34-40」について
前後のお話があるのですが、卒業式では時間の都合もありこの部分だけを朗読します。
「小さき者とは」で次のような解説があります。

☆この箇所を、わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われることなのです。

☆ 実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛の道具として隣人を愛したのではないのです。

☆それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいのではないでしょうか。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11章12節参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19章28節)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「裸」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言ってもいいのではないでしょうか。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。
カトリック東京教区「福音のヒント」より

私たちが、キリストの隣人愛を実践するのは、「自分のため」「神のため」ではなく、目の前に困っている人がいて、それに手をさしのべるのは、人間として当たり前の事です。
一年前、大震災が起こったとき、被災にあったひとたちと「共にありたい」との思いで立ち上がった生徒たちでした。
そうした1年をふりかえり、本学園の「建学の精神」であるこの箇所を照らし合わせて考え、これからの生き方の指針となることを願っています。

卒業式で読む聖書「小さき者とあれ」

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卒業式で朗読する聖書の言葉  マタイによる福音25章34-40
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国(みくに)を受けつぎなさい。
 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、.裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

この箇所は、聖ヨゼフ学園の建学の精神とされているところです。
卒業にあたり、これまでの歩みをふりかえりながら、あらためて建学の精神について
考えてみたいと思います。

看護科5年生看護観発表会

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 本日ピア・サポート活動の一貫として「私の看護観」を5年生が下級生の前で発表をしました。5年生は、「入院時から退院後までが看護」「患者さんの意思決定を支援することが大切」「患者様中心の看護をめざす。患者様やご家族様の言葉は原動力となる。」など力強く自分の看護観を語ってくれました。下級生は「患者様中心の看護が大切であり、その看護を行うためには、傾聴をしっかりして患者様の気持ちや意思を知り看護を行うことが大切だと思った。」と感想を述べていました。本日の5年生からの学びを大切にして、これからの病院実習に活かしてくれるものと思います。

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